5月26日、今日でクーがいなくなってから、1年が過ぎたことになる。型通りだけど、もう1年かという気持ちと、まだ1年かという気持ちが交錯している。
5月の半ばぐらいから、今日を意識して、暗い気持ちが続いていた。しかし、なるべく思い出さないように、意識しないようにしてきた。クーのことは考えたくなかった。令子ともまったく話題にしなかった。授業のために出かけ、駅からショートメッセージで今日は命日だけどと送ったのみ。知ってる、とだけ返事。
このところ、クーの誕生日などにローストビーフをあげることがほとんどだったので、よく買っていた店のものを買ってきてクーを偲ぼうかとも思ったが、それもなんだかしたくなくて、今日はそのまま帰った。夕食も麻婆春雨で、クーの好物ではない。いちおう日本酒のぐいのみを合わせたが、献杯と口にしたのは俺だけだった。
誰もが、時間が解決しますよと言ってくれるのだが、それはうちの場合はまったく効果がなかった。1年経っても、家族を失ったつらさは少しも軽減されない。なまなましい思い出も鮮明だ。……と書いたが、実際のところは、なるべく思いださないように、考えないようにしているといったほうが正確だろう。もう一歩踏み込めば、思い出があふれでてくることがわかっているので、その手前で立ち止まってしまう。令子はすすんで、俺が「沼」と呼んでいる深みにはまりにいき、泥にはまって大泣きすることがときどきある。私にはとてもできない。
夢に出てくることが何度かあったが、クーが別の犬の姿になっていたり、探してもいないこともあった。まともな姿で現われてくれたこともいちおうある。なんだ、生きてるんじゃんとしゃべったこともある。でも、思っていたより、クーの夢は見ないでここまで来た。
ヨガをやって床に顔を近づけていると、カーペットに染み込んだクーの臭い(匂いとは書きにくい)が立ち上ってきて、懐かしいような、やりきれないような気持ちがしていたのだが、さすがに半年ぐらい過ぎると、それもわからなくなってしまった。でも、いまでもときどき、ふとクーの臭いが漂ってくるように感じるときがある。
まだクーの写真を見ることができない。写真を見直すのが嫌で、結局、いつも善福寺公園の写真を使う年賀状も、写真選びができずに出しそびれてしまった。Macのデスクトップ画面やiPadのホーム画面にはクーの写真があって、毎日見つめることになる。一緒にいるのだ。ほんとうは消したいのだが、それをすると、さらにクーを自分のまわりから抹消してしまうような気がして、そのままにしてある。Macのほうは、ムッチリ太ったクーがすごい存在感をもって写っている。iPadのほうは、まだうちに来て間もない頃の、ほんとに仔犬だった頃の幼いクーだ。見るたびに、心をわしづかみされる。
iPhoneは、トイレに落として水没させて壊れてしまい、データも移行できなくて、購入した直後に写した石神井公演の三宝寺池の写真がホーム画面になっている。改めてクーの写真を探し、それを指定するという作業が、どうしてもできない。
iPhoneが壊れたときには、焦った。こちらに移ってからはあまり一眼レフを持ちだすこともなくなり、けっこうiPhoneでクーを撮っていたのだが、バックアップを取っていなかったので、亡くなった当日の写真を含めて、半年以上の写真を危うく全部失うするところだった。慌てて修理専門店に電話をして持参し、回路を洗ってもらって翌日なんとか写真を取り出せたときには、安心でへなへなと崩れ落ちるような気がした。でも、まだその写真を見ることができない。
歯茎が何度も腫れるようになり、善福寺の歯医者にはほぼ週1で通っている。公園まで100メートルもない近さなのに、思い出が強烈すぎて、ずっと公園には立ち入れなかった。昨年11月頃だったか、紅葉の写真を撮りに、思い切って足を踏み入れた。懐かしさが込み上げてくる。クーとここで暮らした10年が、わが人生のハイライトだったんだろうなとつくづく思う。
じつは昨年の暮れあたりまで、歯医者の正面のガラスに、クーが鼻をくっつけた跡がほんのり残っていた。治療を待って待合室にいると、いつもじっとこちらを見つめて外で待っていたっけ。見るたびに切なさがつのるばかりだったが、年末にはふき取られた。
いまでも近所を歩いていると、クーが一緒にいるような気がする。見ようと思えば、いつでも黒い塊を見ることができる。家の中でも、おんなじで、いまクーはちょっとここにいないのだという気持ちになってしまう。
クーのことを思いだすと、きりがない。どんどん湧いてくる。そろそろ、それを書き留めてみるのも悪くないかもしれない。
これから、さっと遺骨の入った壺をなでよう。ちゃんと触ることはまだとてもできないから。